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2019年に新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)が出現してからほぼ5年が経ちました。皆様はこの一連の出来事を振り返り、何を感じ、考えますでしょうか。きっと様々な思いや意見があると思います。ここではNeurIPS 2024に採択された論文に関連して、僕が医学的科学的な観点から感じたことをコメントしてみたいと思います。

臨床医の立場から

僕は市中の総合病院の内科医としても勤務しており、当初よりCOVID-19の患者の診療にあたっておりました。発生初期のころは微細なスリガラス影が両側性末梢側に多発する特徴的な肺炎のCT画像初見を示し、血液検査所見でも炎症反応が低下したにもかかわらず肺炎が悪化していくなど、通常の肺炎と異なる経過でした。どのような感染症であっても基本的に致死的な経過を辿るのは、濃厚な基礎疾患がある方やご高齢の方が主なのですが、COVID-19は基礎疾患のない比較的お若い50〜60代の方も亡くなることがあり、「これは確かに油断のならない新興感染症だ」と感じたのをよく覚えています。これまでに様々な治療薬が用いられましたが、抗ウイルス作用として劇的な効果を実感できることはあまりなく、今でも患者の免疫反応をコントロールするのが基本的な対処法です。最終的に致命傷となるのはARDSと呼ばれる過剰な免疫反応による肺炎なのです。

COVID-19の創薬

とはいえ、今回の新興ウイルス感染症の治療薬は、これまでの創薬と比較して類を見ない速さで開発されました。通常、新薬開発には15年程度の時間がかかりますが、COVID-19についてはあっという間に低分子化合物や抗体の医薬品が開発され実臨床に用いられました。低分子化合物薬品は一般的に感染した後のウイルス増殖を抑える目的のものが多いですが、感染予防としては期待できません。一方、抗体医薬は感染予防効果を持ち得ますが、SARS-CoV-2は容易に変異するRNAウイルスで、免疫回避能力に優れているためすぐに耐性を獲得します。新たな抗体医薬開発は製薬業界としてはコストパフォーマンスが悪いため、今は下火となっています。ただ、幸いにも変異が進んだウイルスは毒性も低下し、基礎疾患のない比較的お若い50〜60代の方が亡くなることはほぼ無くなりました。臨床医学的にも概ね一件落着の印象で、2023年5月に5類感染症に移行。経済的な後遺症は残りますが、人々の過剰な不安は薄れていき、時代はポストコロナ、アフターコロナと言われるようになりました。

結局解明されているのは一握り

しかし、科学的には疑問が残ります。変異したウイルスはなぜ毒性が低下したのでしょうか? ほとんどの人類が感染やワクチンによって抵抗性を獲得したためでしょうか? そもそもウイルスの変異と抗体の変化にどのような法則があるのでしょうか? COVID-19で亡くならない人はなぜ過剰な免疫反応が起きないのでしょうか? この先、またウイルスの毒性が強まることはあるのでしょうか? 全世界でSARS-CoV-2の研究が盛んに行われ、莫大な予算が注ぎ込まれ、短期間のうちに蓄積された膨大な情報をもってしても、現時点でこの問いに完璧に答えられる人はいないと断言できそうです。

過去、1918年に世界的に大流行し、新型コロナウイルスよりも10倍以上の死者を出したと言われるH1N1亜型インフルエンザ(スペイン風邪)も同様で、なぜ現在は毒性が低下して終息しているのかは依然としてわかっていません。しかし、今回は世界規模、リアルタイムで新型コロナウイルスの遺伝子変異情報の膨大な時系列データが記録されており、免疫反応とウイルス変異の関係性を解明する糸口になるかも知れません。今回COGNANOは、(アルパカの抗体ではありますが)新型コロナウイルスの変異と抗体の変化による免疫反応のビッグデータを公開しました。アルパカは特殊な抗体を持っており、次世代シークエンサーの網羅的解析によって、生体内での抗体の免疫反応の膨大な情報をスナップショットとして記録することが出来ます。我々のデータセットはウイルスの様々な変異に対応できる抗体、対応できない抗体が何らかの規則性を持ってみられることを示しています。更に、免疫反応は一度作られた抗体が作られ続けるといった静的なものではなく、かなり流動的に変化していることも証明しています。このようなデータは世界でも類を見ない、唯一無二のデータセットです。

機械学習と分子生物学の融合分野の展望

膨大で複雑なデータから、単純化できない法則性を見出し、解明し、新たなものを予測するためのツールとして、機械学習はまさにうってつけです。ある程度十分な医学分子生物学のデータの蓄積と機械学習分野のブレークスルーが科学全体の成熟をもたらし、AlphaFoldを開発したデミス・ハサビス氏とジョン・ジャンパー氏にノーベル化学賞が授与されたのも運命的に感じます。今後、機械学習を利用した創薬分野が発展していくことは必然です。抗体医薬についても機械学習の応用が強く期待されますが、実は現在のところ基礎となる学習データが圧倒的に不足しているのが実情です。COGNANOが提供するデータはこういった問題点を補完していけると考えており、今後の発展を是非期待していただきたいと思います。